Gilles Deleuze、ニーチェ的、バタイユ的な初夏の風

ジル・ドゥルーズ。「好々爺口調シリーズ」って字幕があんまりふざけててウケたので。最初の十秒ぐらい早送り。ボストン型の眼鏡がお洒落。いやそんなことはどうでもいい。しかしふざけたジジイだぜ。


梅雨の晴れ間の今日の風があまりに気持ちいいので、思わずチクショウって呟いてしまったことをここにお詫びします。どっから運ばれたのか、水の匂いがする。「自」と「他」の区別がなくなること。ニーチェとか、バタイユとか。

聖なるものと〈永遠回帰〉

聖なるものと〈永遠回帰〉

勝手に転載。ピックアップする部分を考えるのが面倒くさいので、そんなときはむしろ段落一つ書いちゃう。


「至高なるものの経験が<異質的な>現実をなすのはなぜかと言えば、それは至高なるものが、どうしても現前性というかたちで生きることのできないなにかを含んだ仕方でしか経験されないからである。至高なるものは、主体がそれを自己へと現前するものをしては生きることのありえない、過剰な部分を秘めている。しかし、ひとは至高なるものを、真に存在するもの、可能なものであると信じやすい。私へと現前することの可能な存在者である、それゆえ私がそれを対象的なものとして捉えることの可能な存在者である、と錯覚しやすい。こうした錯覚は、反復性を取り違えることに結ばれている。つまり至高なるものはいつも反復的に生きられるが、そのときはそこに<起源>があると信じてしまう。異質的な現実と真実性は、つねに反復的、永遠回帰的にしか生きられない。そうでなければ、リアルに、真実味を持って生きられることはない。ところが、そういう反復を、もっぱら同一的なものの反復である、定まった起源を同じままに繰り返していると誤認してしまうのである。こういう錯覚や誤認に、王権やファシズムは関係しているだろう。」