いちばんいいたいこと

今回は、自分の考えの根底をなしていることを書くので、ちょっと本気です。そもそもこのブログで書きたかったことはこれに尽きるといってもいい。


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まずは99年サム・メンデス監督のアメリカ映画『アメリカン・ビューティー』の、有名な感動的シーンから。
http://www.youtube.com/watch?v=UDXjnW3nIWg
(Sometimes there's so much beauty in the world. I feel like I can't take it. My heart is going to cave in.)


少年が少女に、「自分が撮った最も美しいもの」を見せる。これは、ようつべ上でも結構うp数のある話題のシーン。「話題」になっているということは、このシーンのもつ「意味」が共有されているという証拠。いや、ようつべ上ではね。


日本では、このシーン自体はほとんど俎上に上らなかった。「これのどこがThe most beautiful thingなん?」とか言われて終了だろう。日本は、少なくとも思想や文化の上では、本当に田吾作の国になってしまったと思う。不況とかマジどうでもいい。要は、風に舞うプラスチック・バッグがなぜ意味をもつのか、そういう話。


この本は、タイトルも装丁もダサいし、対談だから作品と呼ぶべくもないような類の本だけれど、ここ数年で読んだ本の中で、最も衝撃を受けたものの一つです。宮台真司がただの社会学者じゃないのは、こういう哲学や思想を全て呑み込むラディカルさがあるから。


自分だけなのかなあと思いながら、漠然と澱のように抱えてきたものが、実はより普遍的な何かだったことを知るということは、何ともいえない安堵感をもたらす。「お前はそれでいいんだ」と言ってもらえた気がする。以下本文より。


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「そして、たとえば、夕暮れ時に満開の桜の木の下にいるときに、あるいは満点の星の下で天体観測をしているときに、あるいは川の流れを見たり、焚き火の焔を見たりしているときに、何か名状しがたい戦慄が襲ってきて、何時間も動けなくなってしまったりする−全部僕の個人的経験だけど−場合にも、僕たちは『端的なもの』に出会っているわけです。奇しくも、量子物理学者のヴァイツゼッカーは、幼少期に満点の星の下で同じ体験をしたと言うし、村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』にも、焚き火を見ているうちに引き込まれるエピソードがでてきます。


 これら全てに共通することがあります。それは、僕たちがこれらの『端的なもの』に出会っているとき、僕たちは例外なく、『社会』の中ではなく、『世界』の中に、自分自身を見いだしているということです。君はいい人かどうかとか、ちゃんと努力したかどうかとか、誰かが何かをこうしたからだとか、世間が自分を認めてくれているかどうかとか、そういう社会関係の領野の中には回収できない事象に出会っているということです。」


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無論ここでいう「世界」とは、地球のことなんかではなく、「全て」「ありとあらゆるもの」のことです(その中には必然的に自分も含まれるわけですが)。あ、ちなみに「自然を大切にしましょう」とかっていうロハス的な話でもないですよw


と、ここまで読んで、「え〜でもそれって宗教っぽくない?なんかこわああい」とか思った人は、ある意味正しい。宗教とは、情報処理能力が低い人々のために、ていうかそういう人々を大量に動員するために、上に書いたような感覚に+αして、登場人物とストーリーを用意し、さらに適度なカタルシスをもたらす政治性をふりかけ、わかりやすく紙芝居にして咀嚼してあげたものだから。


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しかしまあ…いやどうだろう。人のことは知らないけれど、少なくとも俺は「紙芝居」は必要ないので、その「核」となる感覚だけあればいい。「世界に感応する/感染する感覚」。それを哲学の言葉で「エロス」と呼んでもいいけれども。


現代も含めた「近代」って、人類の歴史から見ればやっぱり異常な時代で、本来、人間はずっとこの本の言葉でいう「端的なもの」「名状しがたいもの」をプライオリティーの最高においてきた。少なくともそういうコンセンサスがあった。


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人間関係。家庭の平和。政治。経済。生活、生活…。面倒くさいからそういうのを一言で「パンの問題」って呼ぶことにしてるけど、とりあえず言えることは、世の中的に「シリアス」だとされていることは、マジどうでもいい。片腹痛い。所詮それらは全部「社会」の枠組みの中の話じゃない。「社会」は、「世界」に抱合される。しかつめらしい顔した趣味の悪い冗談も大概にしてくれよって思う。ヘソでダージリンティーが沸くっつうの。