書くことについて

こないだも書いたとおり、別にクリスチャンでも何スチャンでもないけれど、キリストの話から。


ヨハネによる福音書』の中、「あなたがたの中で罪のないものが、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言ったイエスが、地面に何か文字を書き始める。何を書いているのかはわからない。それだけに、不思議な凄みのあるシーン。「イエス身を屈め、指にて地に物書き給ふ」


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石川九楊(いしかわきゅうよう)という書家の爺さんがいて、恐ろしくラディカルなことを言っている。石川によると、人間のあらゆる表現は「はなす」と「かく」と「つむ/くむ」という行動に大別される。


「はなす」とは、話すであり、離すであり、放すである。自分の身体を用いて直に表出・表現する行為、つまり話すことや歌や踊り、笛を吹くことなども含まれ、これらは、「自然を変形せずに、意識を中空に放つようなありかたで表現すること」である。


「かく」とは、書くであり、描くであり、掻くであり、欠くである。人間が道具を用いて対象を傷つけ、痕跡を残すことであり、文学、書、絵画、彫刻、打楽器、弦楽器などがこれに含まれ、これらは、「自然を減算的に変形して表現すること」である。


「つむ/くむ」とは、積み上げる、組み上げることであり、建築、造園、織物、陶芸、塑像などがこれに含まれ、これらは、「自然を加算的に変形して表現すること」である。


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ジャック・デリダ。哲学を終わらせた男。西洋形而上学の歴史を、「音声言語(パロールparole)の文字言語(エクリチュールécriture)に対する優位の歴史」であるとして、脱構築déconstructionした。


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プラトン著『パイドロス』での、ソクラテスパイドロスとの対話。エジプトの発明の神トートhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%88が、偉大なファラオであるアメンhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%B3に自らの発明を報告する。


トートが発明したものは、「数と計算と幾何学と双六とサイコロ、そして何より…文字」。しかしアメンは文字を拒絶する。「文字とはパルマコンpharmakon(英語のpharmacyの語源)である。それは薬であると同時に毒であり、仮象appearanceであり本物realityでなく、生命がないlifeless」


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以上のような考え方をデリダは批判する。まず話し言葉があって、後にその代補supplementとして文字が出現するのではない。言語とは、そもそもその始原においてエクリチュールなのだ。何か確固とした「もの」が最初にあるのではなく、何かと何かの「差異」、刻み込まれた「痕跡」がある。例えば古代メソポタミア楔形文字のように。

…と、何やかや御託を並べたけれど、正直に言うとそんなことはどうでもいい。いやどうでもいいというか、結局はプライオリティーの問題だから。例えば世の中不況だ不景気だとかいうけど、そしてそういう経済的な面で本当に困っている人には申し訳ないけど、はたして社会がよくなれば人は幸せになるのか。人間はそんなものか。地獄にも、いろんな地獄があるだろう。


実際たまらない。シルエットだけの男がやって来て、"blablabla…"としたり顔でまくしたてる。しかしそいつは最後に必ずニヤリと笑い、肩をすくめてこう言う。"But it's not you."結局のところ、美しいものを美しいと思った自分が悪いのだろう。当然美しいものが悪いわけじゃない。こうなると感受性も想像力も思い出も、みんな敵だ。