表現について

クオリア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2
つまり、「感じ」それ自体のこと。「リンゴの赤い感じ」「空の青々とした感じ」、それ自体。


そもそも「表現する」って何か。脳に与えられたもの(presence)を、もう一度なにかのかたちにし(represent)、それを外側に(ex)押し出す(press)こと(express)。


だからあらゆる表現は、(純粋に再現前性という意味では)第一義的なクオリアにはかなわない。書かれた薔薇、描かれた薔薇、奏でられた薔薇、歌われた薔薇は、実際に見た薔薇、嗅いだ薔薇、触れた薔薇の質感には毫も如かない。


では、それでもなお残る「表現の価値」とは何か。それは「文脈contextに依存しないもの」「文脈を離れたもの」ではないか。「文脈など優に超えたもの」といってもいい。そのままの糸杉が必要なら、ゴッホの出る幕などない。


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共感覚
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F%E8%A6%9A
五感を横断するような感覚。文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする特異な能力のこと。


そこまで完全なものは自分にもないしほとんどの人にもないだろうけど、実はけっこう人はこういうイメージを駆使しながら生きているのではないか。例えばある人にある色合いを見出したり。


詩人としての宮沢賢治は、本当に底知れない存在だけれど、最初に『春と修羅(mental sketch modified)』
http://why.kenji.ne.jp/haruto/109harut.html
を読んだとき、例の波のように上がり下がりする一文一文に、なぜだかピアノソナタが浮かんだ。