移動祝祭日と1分55秒後にようやく始まる曲

六月に入ってドタバタし、しばらく書けなかった。多分これからはこうなるだろう。そして内容的にはあんな感じにはならないかも。最近あまり小難しいことは考えていないから。どうせまた考えるんだろうけれど。


また妙な夢をみた。きっと安いドラマみたいにうなされたに違いない。しかしなにがなんだからってなにもなんだ夢をみることもないだろうに、なんなんだよまったく。。。


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啓文堂をブラっとしたら新潮文庫ヘミングウェイの『移動祝祭日』が出ていたので購入。この国で何気に俺らの世代も「ロスト・ジェネレーション(ロスジェネ)」とか呼ばれているけれど、こちらは本家本元のロスト・ジェネレーション(失われた世代)。

移動祝祭日 (新潮文庫)

移動祝祭日 (新潮文庫)

若き著者がパリで過ごした日々を綴ったもので、事実上の遺作(今も昔も、ボヘミアン気取りですぐにヨーロッパ、特にパリに行くアメリカの若者に祝福を)。しかしさすがいいタイトルだなあと思っていると、巻頭に掲げられたエピグラフがもっと素敵だった。


「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ」 ある友へ アーネスト・ヘミングウェイ 1950年


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瑞々しい。スタインベックの掌編『朝食』を思い出した。あと庄野潤三の短編『パリ祭』も。庄野潤三は育ちのいいカバみたいな顔して、ホント繊細に書くと思う。話をヘミングウェイに戻して、ちょっと長いけど引用してみる。


「青い背表紙のノート、二本の鉛筆と鉛筆削り(ポケットナイフだと削りすぎてしまった)、大理石張りのテーブル、早朝の匂い、床の掃き出しとモップでの掃除、それと幸運さえあれば、あとは何も要らなかった。幸運のおまじないに、私はトチの実とウサギの足をポケットに入れて持ち歩いていた。ウサギの足の表皮はずっと前に擦り切れており、骨も腱も長年のあいだにこすれてなめらかになっていた。足の爪がポケットの内張りに引っかかると、まだ幸運の女神がついているぞ、とわかるのだ」


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相変わらず身体の中身が空っぽに感じられる。空っぽついでに何もかも吹きすぎればいいと思う。こう感じなくなる日がくるのかはわからない。とてもくるようには思えない。そしてたとえきたとしても、それはもう、いろんなことがもうどうでもよくなった証拠じゃあないかとも思う。この部屋がずっと好きだったけど、最近そうでもなくなりつつあることに気付いている。とりあえず、今は何もかも吹きすぎればいいと思う。流れ去ればいいと思う。