80年代のライヴ「コレを見ろ」2

大所帯になってからのTalking Headsは、いやデヴィッド・バーンは、明らかに「土俗性」を意識している。言葉が要らぬ誤解を呼ぶのなら、それを「根源性」と言い換えてもいい。



例えば試みに、日本の和歌などを繰ってみれば、わかりやすいのかもしれないけれど、凡そ人の世にある表現という表現はいくつかの主題に容易にカテゴライズされてしまう。



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最も多いものは、これはもう圧倒的に「恋」であろう。つまりは、男女関係がgoodだったりbadだったりする、広い意味での「セクシャルな話」である。



次には、広い意味での「社会的な話」。家族関係や友人関係、人として云々だとか人生云々だとか夢を目指して云々だとか、要は人間関係の話である。



他にもいくつかあるだろうけれど、主要なものとしては「自然の話」があるだろう。つまり、人間の目から見て、自然がいかに美しかったり、有難かったり、畏れ多かったりするかという話である。



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これらに共通することは、そこに常に人間が登場したりもしくは介在するという点にある。もちろん我々が人間であり、我々以外の人間もまた人間である以上、上記に帰結することは必定なのだろうけれど、しかし少なくとも目指すところの志向性として、そうではない、オルタナティヴな在り方がある。



すなわち「(なるべく)人間というフィルターを通さずに、世界を記述する方法はないか」という欲望である。そこにおいて、ニーチェの次の言葉はいよいよその意味を増すだろう。



「自然はいかなる目標も持たずして、しかも何ごとかを為しとげる。われわれ人間は『目標』を持ち、そうしてその目標以外の何ものかを獲得する。」…



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ロカンタンがマロニエの木の根に吐き気を覚えたとき、そこには人間は登場しなかった。あったのは、いやなかったのはというべきか、とにもかくにも、ただ「存在」のみであった。