ダブル・バインド

さすがに、さすがに自分の中でいろいろと変わってきていて、正直それをどう結論づけていいかわからない。「本来無東西 何処有南北(本来東西無し 何処にか南北有らん)」という言葉があるけれど、まったく、まったくそこには良いも悪いも無いのだからなあ。。。


大抵の場合、そういった変化の中に埋没しつつ、無自覚のうちに変化するわけだから問題ないわけだけれど、変化しつつある自分を見つめるもう一人の自分が、自分を苛む。


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中也の父親は臨終の席で、この放蕩息子の詩、『臨終』を読んで涙を流していたという。そんな父親を出された日にゃあかなわない。迂闊にも、ほろりとした。母親と娘の関係もあるのだろうけれど、父親と息子もこれはこれで、当事者にしかわからないものがある。



『臨終』    中原中也


秋空は鈍色(にびいろ)にして
黒馬の瞳の光
水涸れて落つる百合花
あゝこころうつろなるかな


神もなくしるべもなくて
窓近く婦(おみな)の逝きぬ
白き空盲ひてありて
白き風冷たくありぬ


しかはあれ
この魂はいかにとなるか?
うすらぎて
空となるか?



秋山駿てこんな人だったんだ。そして武田鉄也は関係ない。