Metamorphosis

寝床から起きようとして、起き上がれずに苦悶しながら、フとこれは何かに似ていると、そこだけ妙に明晰に思い至った。こ、これはグレゴール・ザムザ!虫かよ!


鳴呼苦しい。これで喀血でもすれば我国の正しい自然主義の系譜に連なると思ったりもしたが生憎そんなカラフルなものは出てこない。ただ単に、意味もなく、苦しいのである。


熱のせいか、朦朧としてのたうつさなか、無性にきつく何かを抱きしめたくなる。大抵の獣は、腹這いになって眠る。躯の表側を晒したままにするのが不安なのだという。


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臥せっているのをいいことに、小川国夫を読み返す。

アポロンの島 (講談社文芸文庫)

アポロンの島 (講談社文芸文庫)

闘牛を描いた作品のラストで、堪え切れずにこみ上げた。それがまた怪我にさわって、悶える。ぎゃふん。


「殺すために育てるんだ……。それにしても、なぜわしがあいつの生涯を見守り続けることになったのか……。今考えて見ても、不思議な気持ちだなあ」


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まだ無名だった小川国夫を、さすがに島尾敏雄は「ヨーロッパ風な掟のにおいが感じられた」といって見出した。この「ヨーロッパ風な掟のにおい」という感性はやはり秀抜だ。


地中海的な、カトリック的な、光と影、霊と肉、理知と激情のあわい。闘牛の剣は、つかを残して、牛の体の中に入る。そこで流される血や、毀れる肉塊と、恍惚とした人々が去った後の、石造りの劇場の静謐。。。


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ところで小川国夫は、とてもいい顔立ちをしている。俳優の加藤剛のような、いわば「青年らしい顔」とでもいいたくなるような。作家の顔について。例えば芥川の顔は、やはり尋常ではない。あれは、まともに生きてまともに死ぬ人間の顔ではない。それを充分に自覚している、例のあごに手を添えた写真。


こんなエピソードがある。いつ頃の話か、少なくともこの国がまだ帝国だった頃の話だろう。ある日本人が、ロシア人の女性に芥川のあの写真を見せた。その女性は感嘆して「この人は貴族か」と訊いた。日本人は違うと答えたが、その女性は、「いや、この人は貴族に違いない。こういう顔は貴族にしか生まれない顔だ」と言い張ったという。



西行の、「年たけて また越ゆべしと思いきや いのちなりけり 小夜の中山」。「いのちなりけり」とはなかなか言えない。逆に言えば、これは恐ろしくalmightyだ。何だか全てが、「いのちなりけり」という気になってくるし、そして呪文のように、それでいいとも思う。歌の、偉大なる所以か。


としどしの、これらの日々には、遠つ祖(とおつおや)の還りきて、また黄泉に戻るその日には、もはやこの身も、もろともに伴わればや。