めもわある

19世紀、ヴィクトリア朝時代の英国の桂冠詩人、サー・ジェフリー・エドワード・ウォルトンは、端倪すべからざる酒飲みだった。彼のノルマン風の長身は、水でも紅茶でも、たとえそれがコルクを抜いたそばから蒸発するような類のアルコールであっても、まるで意に介さないようだった。


当時のロンドンの全てのパブで酒を飲んだという彼を、例えば同時代の詩人は以下のように評した。「ミューズの子にしてバッカスの申し子(ワーズワース)」「女王陛下の最も才能豊かな、しかし最も恥ずべきしもべ(テニスン)」


つと思い出について思うとき、ウォルトンの『アルビオン』という詩の一節が浮かぶ。


Though memories art pillows of fraud , Why shall not I rest on ?
(思い出の いかな偽りの枕であろうとも そに憩わずにおれようか)
O Thou art a man of solitude , Albion , thee land , thee flesh .
(おお、なんぢ寂寥のひと アルビオンよ そはなが大地 なが肉体)  白井武彦 訳


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謝ります。上に書いたことは一から十まで作り話です。詩も含めて100%ピュアな嘘っぱちです。ごめんなさい。そもそも白井武彦って誰だよ。いや失礼。ただの戯れです。でも普段このブログに書いてることは100%真実です。


いやあっしはただ思い出について書こうと思っただけなんすよ旦那。これは本当に。個人的な実感としては、日本の社会って、大体80年代の中頃から急激に変わった気がする。細かくいうとキリがないからよすけれど、凡その実感としては、少なくとも地方では、それ以前の時代には、まだ明治・大正的な人付き合いや相互扶助的な経済や、または感性や美意識が色濃く残っていた。もっといえば、それは江戸の昔にまで遡れるものだった。自分の思い出の中の祖父母は、そういった人々だった気がする。良い悪いは別として。


ジェネラルな話はこれぐらいにして、とりとめもないようだけれど、懐かしいと思うものをひとつ。昔は、「仕出し屋」ってものがあった。もしくは町で、ある重要で独特な位置を占めていた。何か行事があると、親戚や、関係者の労をねぎらう名目で、そこは利用される。配達される場合もあれば、座敷が借りられる場合もある。大抵の場合は、「〜屋」だとか「〜楼」というちょっと婀娜っぽい名前で呼ばれる。つまりそこは、言ってみれば、町の人々の、「非日常」の象徴のようなものだった。


もちろん今は、仕出し屋はそんなに活躍しないし、何ものをも象徴しない。その代わりに今は何があるか。あらゆる種類の「チェーン店」というものがある。いや、何かが「ある」というよりは、何かが「なくなった」のかもしれない。そういったタイプの人間の関係性が。でなければ、夏の澄み切った朝に、簾越しにやってくる酢飯の匂いを特別だと感じる、そういったタイプの感性が。


生まれた年の曲、らしい。