National Story Project

ポール・オースターについて書いてないなと思っていたら、新潮文庫から「ナショナル・ストーリー・プロジェクトⅠ・Ⅱ」なるものが出ているを見つけ、最近少しずつ読んでいる。

ナショナル・ストーリー・プロジェクト ? (新潮文庫)

ナショナル・ストーリー・プロジェクト ? (新潮文庫)

『すべてを俎上に』というラジオ番組からできた企画らしい。「アメリカ中の、普通の人々の、ちょっと普通じゃない実話たち」を募集し、オースターが編集したもの。


長くても数ページ、短いものだと半ページのものもある。上手いものもあれば、下手なものもある。下手なものは、大抵がいわゆる「筆がすべった」状態のもの、つまり格好をつけたもの。まぁプロの作家じゃないし。


実はこういう本は貴重だと思う。人間がこれだけ世界中に何かを張り巡らしたつもりになっている現代でも、外国の市井の人々の日常の姿は、なかなかどうして見えてこないものだから。


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オースターの書くものは、例えばジョン・アーヴィングがそうであるように、そして何よりカフカがそうであるように、到底ありそうもない世界でありつつ、しかしなお日常的な意味での現実性を超えた、抗い難いリアリティをもつ。それをこういう言い方をしてもいいかもしれない。「それは絶対に現実ではないが、しばしば現実よりも圧倒的に現実的である」と。



'obsession'とは、「強迫観念。(悪霊に)取りつかれること」という意味だが、オースターのそれは一貫して「偶然性」というものである。例えば映画『マグノリア』のような世界観といってもいい。人間的な意味にせよ、物理的な意味にせよ、何かと何かが出会う、あるいはクラッシュする。そうである必然性はあったのか、それには意味があるのか、何故こうであるのか、こうでないということはなかったのか…。



編者のクセか、そういった話が、まま見られる。しかし大半は、家族や親戚や職場の同僚、幼い頃の思い出などを書いた、いわゆる「いい話」が多い。ところで、もはや(アメリカ人にも)あまり読まれないだろうけれど、かつてリング・ラードナーという作家がいた。1920年代にスポーツ記者として活躍し、メジャーリーグの選手の人間模様などを描いた、ハートウォーミングな短編をいくつも残している。この本を読んで、20代の中頃に好きでよく読んだラードナーを思い出した。


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アネクドートanecdote」という言葉がある。元はロシア語で「ブレジネフ時代のソ連で盛んになった、政治風刺の小話」のこと。今は英語にもなり、転じて小話一般を指す。お気に入りを一つ…


赤の広場で男が「スターリンは馬鹿だ!」と叫んだ。KGBが飛んできて男を逮捕し、懲役22年を宣告した。以下が刑のうちわけ。「国家侮辱罪が2年、国家最高機密漏洩罪が20年」…


実はこのアネクドートという言葉が大好きだ。この言葉を尊敬し、敬愛し、羨望している。こういう小話が生まれる土壌では、人々がきちんと言葉を愛で、転がし、自分のものにし、楽しんでいるから。


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アメリカについて想う。好むと好まざるとによらず、20世紀の後半に生まれた日本人なら、間接的にせよ、その何らかの影響下にあるだろう。アメリカ。結局、自由でも、民主主義でも、大統領でもないだろう。それらはみな空疎だから。ただの概念だから。


もし真に「アメリカ的なるもの」があるとすれば、それはやはり人々の日常の中にあるだろう。それは母親が煮込むキャンベルスープであり、工員のつなぎ服に付いた機械油であり、一族や近所に一人はいる変わり者を巡る伝説であり、ダイナーのコーヒーの香りがいざなう思い出であり、人々が、そこから生まれてそこに還る、谷間であり平原であり、夕陽であり、風であるだろう。