lol

「(笑)」とか「w」とか、あと「ワラ」とかもあるけど、英語圏では「lol」と書くらしい。「lough out loud」だとか。へー。でもちょっと無味乾燥っていうかドライな感じがするのは俺だけか。


何となくイメージしてつくってみたけど、絹ごし豆腐とひきわり納豆とマグロのづけに薬味と醤油適宜を、まぜりんぐして食べてみたら、よく冷えてたのもあって、えらい美味かった。卵が一つあってもよかったな。


青山ブックセンターであった宮台真司トークイベントに行こうと思ったら、定員が100名だったらしく、問い合わせたら案の定とっくに埋まってた…んのおおおおうorz


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接頭辞に「meta-」ってありますよね。「〜を超えて」といった意味です。例えばphysics(物理的なもの)のmeta(上位)を語るものはmetaphysics(形而上学)といった具合です。「メタレベルでものを見る」とかもいいます。日本語の「俯瞰」に近いかもしれません。下に書くような社会学は、そのメタレベルの視点で成り立ってるわけですが、その全体を見渡す視点、「全体性」はもはや失われ、人々は各々の場所で「蛸壺化」しているにすぎないというアポリアもまたあるわけです。もちろんその良し悪しは別としてですが。


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てなわけで、今の時代って一体どういう時代なのよってところをクリアカットに解説。「大きな物語」や「ポストモダン」などのテクニカルタームは、はてなキーワードを参照あれ。こういうとき便利だな。


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社会学者の大澤真幸は、日本の社会は45年の終戦から25年単位でその性質が変わっているとし、45年から70年までを「理想の時代」、71年から95年までを「虚構の時代」と名付けている。


「理想の時代」とは、大きな物語がそのままのかたちで機能していた時代。「虚構の時代」とは、大きな物語は失われ世の中はポストモダン化したが、例えば「会社のために頑張る」だとか「良き母親になる」だとか、それぞれがいわば「小さな物語」をでっち上げることにより人々のアイデンティティーが担保されていた時代。


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じゃあ、肝心の96年以降の現在はどういった時代なのかというと、大澤真幸の後を受けて哲学者の東浩紀が呼んでいるのは「動物化の時代」というもの。これは強調しすぎるということがないと言えるほど繰り返し人々に誤解されているんだけど「人間が野性的になり本能をむき出しにする時代」という意味では全くない。


ここでいう「動物化」とは…はてなキーワードをどうぞ。つまり、人間が人間であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない。対して動物とは、常に自然と調和する存在であり、何かを否定するということがない、というもの。要は、弁証法的な運動が働かない状態、ということですね。


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具体的なイメージとして東浩紀が面白い例を出している。友達と映画を見た二人が見終わって感想を言い合う。「俺むちゃくちゃ泣けたよ」「へー、俺すげぇ笑えたけど」……終了。こういうイメージ。


つまり、全てがのっぺりとゆるーく過ぎ、用意されたアーキテクチャーの中に包摂され、ぽわわ〜んと生きる人々の群れ、そういうイメージ。だからよく誤解されがちなように、人間がワイルドで攻撃的になるという感じのむしろ真逆といってよい。


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しかしそうはいっても、東浩紀のような人は必ずしもその状態に否定的なわけではなく、人々が最早そうなりつつある以上、それはそれで一つの社会や人間のあり方なんだから、否定する理由は何もないという立場。


ちなみに宮台真司は、人間それじゃあやっぱ生きてる甲斐がないよ的な立場で、そういう(彼の言葉でいう)『終わりなき日常』に違和感をもたない人間を「内在系」、そういった状態には耐えられないタイプの人間を「超越系」と呼んでいる。


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人々がどう思ってるのかわからないけど、そして恐らく大半の人々は別にどうとも思ってないよという賢明な立場を貫いている可能性が高いわけだけど、自分としては少なくとも同世代も含め下の世代は、ものすごい勢いで「動物化」しているのを、ただの雰囲気じゃなくてありありと感じます。もちろん、だからといってそれがそのままダメな在り方だと単純に断罪はできないわけですけどね。