プールと絵

生涯学習センターのプールに行く。わざわざ使い捨てのプリペイドカードを買って改札みたいのをくぐる仕組み。意味ないよな、あれ。

子供の頃ずっと水泳をやってたのは、基本的に泳ぐのが好きだったのと、動いても汗をかかないから(実際はかいてるんだろうけど)と、水泳が徹頭徹尾、個人種目だったから(リレーもあるけど)。


わりと空いてた。夏場は芋を洗うみたいなのに。ゴシゴシ。いつも思うけれど、飛び込みができないのは無念だ。飛び込みたいのに。

子供の頃に身につけたことは忘れないらしい。水面に顔をつけると反射的に鼻から息を出すクセがついている。恐るべし子供の頃に身につけたこと。


あの爺さんは体力あるなぁとか、あの人のターンは綺麗だなぁとか思って見てたら、なかに妙に水しぶきが上がる人がいる。ストロークに無駄な力がかかってると思ってよく見ると、親の仇のように延々とバタフライをやってるお姉さんだった…いったい何が。

一通り泳ぐと、フとそういえば潜水を長らくやってないと思い、やってみると自分の中でちょっと盛り上がってしまい、見事25mを達成しプハ〜ッと顔を上げたが、監視員の「是非やめていただく」といった視線を感じ、もう止すことにした。


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帰りに府中市美術館に「若冲蕭白展」のポスターが貼ってあったのでフラっと寄ってみた。

入ってから気づいたのだけれど、若冲の展示は4月までだとか…だったらあのポスターは何だよとか思ったけど、別にいい。『大人の休日』とか『monoマガジン』とかで特集されてそうな、ここ数年の若冲流行りは、何だか滑稽だし。

内容としては、驚くほど盛り沢山だった。さすが無駄に住民税高いだけあるぜ府中市美大生か何かなのかわりと若い人が多い。「山水に遊ぶ−江戸絵画の風景250年」というのが正式名らしい。四つのコーナーに分かれていたのでその順に。。。


「山水に暮らす」
牧歌的な山水画たち。本物の好事家ならもっと違う見方ができるんだろうけど、全体的に正直退屈だった。「農村の、平穏な日常」。なるほど伝統的に日本人の生活のイデアのようなものは斯くの如きものかと実感する。蕪村の渓流の画がみれたのがよかった。


神の国のすがた」
面白いくくり方。国学だなんだで、富士のすがたばかりを集めたもの。解説で初めて知ったが、よく子供とかが富士山の絵を描くと山頂を三つに割るけど、あれは中世以来の伝統らしい。へー。印象に残ったのは、岸駒(がん・く)の「芙蓉峰図」。芙蓉峰とは富士山の別名。2m四方ほどの大きな中に、頂ばかりが潔い簡素さで納まっている。いいなぁと思って観ると、右上に書があり「幟仁」とある。有栖川宮だなと思ったら、岸駒は有栖川宮家に仕えていたそうだ。へー。何て書いてあるのか気になったので、そして自分じゃ読めなかったので、学芸員の卵みたいなお姉さんに聞いたらメモ帳を取り出し教えてくれた。「たなひく雲よりうへに 白雲のみゆるは ふしの高根なりけり」だと。なんか、そのまんまっていうか散文的だなぁ。画賛ってこういうものなのかなぁ。


「奇のかたち」
ここででっかい蕭白があったが、あまり好きじゃなかった。若冲とダブルネームになっていた理由が解る気がする。つまり、奇抜でヴィヴィッドなのだ。線が筆というよりは鉛筆で引いたみたいにはっきりしている。要は「日本画っぽくないところがいい」という現象らしい。個人的にヒットしたのは、二作並びであった池大雅の「近江八景図」と浦上玉堂の「酔中山水図」。両方とも数十センチの小さいもので、大雅の方は琵琶湖を描いたものだが、どう見ても茄子にしか見えないし、玉堂に至っては、へろへろと丸く輪郭をとり、それに沿って汚い字で酔っ払った由の漢文が書かれ、中に杉の木が雑に描いてある。二つとも殆どモダンアートの域で、自分は結局こういうミニマムでシンプルなものが好きなんだなと再確認する。


「ロマンティシズムの図像」
江戸時代の人々が、江戸以前の日本に憧れて描いたってことでロマンティシズムってことらしい。つまり、万葉とか平安とか鎌倉なんかを懐かしむ江戸時代の人々。北斎の、題名は忘れたけど錦絵じゃなく肉筆画が恐ろしく綺麗だった。小川に小橋がかかっているその水の感じが。



常設展。近代日本絵画。青木繁や村山槐多のものが目に留まる。青木繁は28で死んだ。村山槐多は22。原色を多様しているがしかし静謐な絵は額縁に納まってそこにあるが、なんというか、額縁の外側のこの国は、もはや何処も彼処もある種のスーパーフラットになりつつあり、彼らが絵に刻み込んだ煩悶がそもそも「何」だったのかさえ省みられないまま、ただただのっぺりと消費され続けている、そんな気がした。