THE DOGS BARK,
BUT THE CARAVAN MOVES ON.
大海をひたゆく藻屑にも似て、ネット上の一部で話題のように、小沢健二が十数年ぶりに活動を再開するらしい。なんでも、環境問題について云々する「ロハスな人」になっているという。正直そういうことについてはよくわからないけれど。
当時兄が中古で買ったフォルクスワーゲンを失敬して、車内で聴いたアルバム'LIFE'と、それについてよくいわれた「多幸感」という言葉。ともすれば思い出すことばかりにこと長けた我々が、削り落とすべきスティグマ。陽だまりの粒子。夜の匂い。その他、その他。
かくてカウボーイは疾走し(いやそういう曲があったのよ)、狂乱のさなかつちけぶりがあがれば、ものみなすべてながれながれ後塵に帰する。犬は吠えるがキャラバンは進む。
亡命者たち
冬、都市に空間をさがす者たちは、みな幸福な亡命者で、街灯の下、さらされて、あばかれて、ひと夜たまさか雪の降れば、その手のひらも指先も、凍てつくいとまもないままに。
‘Cause we're all refugees
And we're all drifting like leaves
But like Bonnie and Clyde we're free
Don't say there's nothing between us
あーうぃっ
うら寂しい裏庭にはなぜあんなにも、うち捨てられたフランス人形が似合うのだろう。ネオンも浴びたいけれど、とりあえず日を浴びるとしよう。さて、ぼちぼち出かけるとするか…アーウィッ。
火炎瓶、湖畔、窓辺のうた
おもむろに、再開。
生きているといろいろとあるもので、変わらないだろうと高を括っていたものごともいずれ変わるし、変えられないと諦めていたものごとも、ときに、変えることができる。兎にも角にも、もともと変化だけのあるこの世界で、なんとかして何かをとどめようとするいじましいこころみの総体が人間という現象なわけだけれど、それがよきにつけあしきにつけ、一度起こったものごとは確実に世界に何かを刻みつけて、けれど二度とは同じでありえない。
今年は、いっぱい笑っていっぱい泣こうと思う。いっぱい見ていっぱい聞いて、いっぱい歯軋りをしていっぱい目を細め、いっぱい話をしていっぱい思い出して、いっぱい歩いていっぱい泳いで、いっぱいもがいて、いっぱい抱きしめようと思う。
名も知らぬ
たまたま発見し、思わず見入ってしまった。ミシガン州アナーバーという町に住む、当時12歳の女の子(他の動画から判断しておそらく)が撮影した動画。ちなみに動画のうp時は16歳だったという。下にうp主の説明を転載。
Clips of Ann Arbor MI put to some new order.
I made this when I was only 12
so this is really old and it isn't
filmed very well, but i hope you like it : )
and to answer everybody's questions, i'm
actually sixteen now so the date at the end
of the video is wrong.
New Orderの曲にのせて、アメリカの地方都市の冬枯れの景色が流れてゆく。これがよくできたロード・ムーヴィーみたいで、妙に上手いんです。雲も光も木々も空も、なんだかソフィア・コッポラみたいで、大げさにいえば、やっぱり文化的なheritageってこういうことなのかなあとか、思わず唸っちゃいました。
80年代のライヴ「コレを見ろ」2
大所帯になってからのTalking Headsは、いやデヴィッド・バーンは、明らかに「土俗性」を意識している。言葉が要らぬ誤解を呼ぶのなら、それを「根源性」と言い換えてもいい。
例えば試みに、日本の和歌などを繰ってみれば、わかりやすいのかもしれないけれど、凡そ人の世にある表現という表現はいくつかの主題に容易にカテゴライズされてしまう。
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最も多いものは、これはもう圧倒的に「恋」であろう。つまりは、男女関係がgoodだったりbadだったりする、広い意味での「セクシャルな話」である。
次には、広い意味での「社会的な話」。家族関係や友人関係、人として云々だとか人生云々だとか夢を目指して云々だとか、要は人間関係の話である。
他にもいくつかあるだろうけれど、主要なものとしては「自然の話」があるだろう。つまり、人間の目から見て、自然がいかに美しかったり、有難かったり、畏れ多かったりするかという話である。
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これらに共通することは、そこに常に人間が登場したりもしくは介在するという点にある。もちろん我々が人間であり、我々以外の人間もまた人間である以上、上記に帰結することは必定なのだろうけれど、しかし少なくとも目指すところの志向性として、そうではない、オルタナティヴな在り方がある。
すなわち「(なるべく)人間というフィルターを通さずに、世界を記述する方法はないか」という欲望である。そこにおいて、ニーチェの次の言葉はいよいよその意味を増すだろう。
「自然はいかなる目標も持たずして、しかも何ごとかを為しとげる。われわれ人間は『目標』を持ち、そうしてその目標以外の何ものかを獲得する。」…
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ロカンタンがマロニエの木の根に吐き気を覚えたとき、そこには人間は登場しなかった。あったのは、いやなかったのはというべきか、とにもかくにも、ただ「存在」のみであった。