ラディカルすぎる?んなこたないよ

たまにゃあこんなことも書くよ。ええ書きますとも。



今日がセプテンバーイレヴンスということで、方々で「反戦」みたいなことを見たり聞いたりした。もちろんあれは痛ましかったし、スペクタキュラーで歴史的にも大きな出来事だった。以下は書き手がそれを認めているという事実を片手にでも持ったうえで、尚且つぐいと踏みとどまって読んで欲しい…つまりは「脊髄反射」しないで欲しいということなのです。



「Love & Peace」とか言っている人がいた。確かこないだ、愛の排他性や暴力性について書いたけれど、彼らはなぜそのようにチラとでも考えないのだろう?なぜそのように考える能力がないのだろう?「能力」もそうなんだろうけれど、結局は「恥」の問題なのだ。



きっと「敵を名指してそれに対して拳を振り上げる」タイプのカタルシスや「自分を免罪する」ことが気持ちよすぎて、やめられないのだろう。素朴に思う。もしも本当に、「反戦」や「反暴力」を訴えるのなら、まずお前が死んでみせろ、そもそもお前が生きていることが一つの暴力なんだよ、と。だって自己同一性とは、それ自体が暴力の所産なのだから。



ところで、ナントカ党が勝ってウンタラ党が負けたらしい。ま、どうでもいいんだけど。片腹痛いことに、そして驚くべきことに、この国の9割9分9厘の人間が「政治」だと思い込んでいることは、実は政治でもなんでもなく、せいぜいそうだなあ…例えば「近所の八百屋より隣町のスーパーの方が大根が安いけどガソリン代や手間を考えたらどっちが得かなあ、悩ましいなあ」というような話が拡大された程度のものにすぎない。億単位の、茶番劇。



「考えが違う」のではない。「考え方のレイヤー」がまるで違うのだからコミュニケートする可能性自体あやしいものだ。いっそのこと、民主主義なんてせいぜいここ百年ほど人類に流布したにすぎない流行は、早晩よした方がいいんじゃないのかな?普通に考えて。



「利害関係」ではなく、結局は「恥」や「美学」や「誠実さ」なのだ。せめて「こういうふう」に話を積み重ねていきたい。最初に出てくる若頭みたいのが哲学者の萱野稔人。次に出るのが社会学者の宮台真司。「思想」とは、こういう「ものの考え方・捉え方」をいいます。一瞬映る垢抜けないカバみたいのは無視していいと思う。てかこれ音ズレ激しすぎだろw