アーレント 刻印なるもの 激しい転倒

ハンナ・アーレントアイヒマン裁判について書いたとき、語り口が軽薄であるとして「ユダヤの娘のすることではない」と批判されたという。

それに対するアーレントの回答。「自分はユダヤの娘であり、そうである以上自分のふるまい全てに『ユダヤ的なもの』が刻印されるはずだ。自分の書くものもそうである。わざわざ『ユダヤ性なるもの』を意識しないとユダヤ的でなくなるというのはおかしい」

+ + + + + +

胸のすくような切りかえしであるだけでなく、このやり取りは非常に示唆に富んでいる。特にこれからの時代には。広くいえば、文化というものへの距離のとり方や解釈の仕方、信頼の度合いも決まるといっていい。

この、自然にしたものでない「あえて(意識的に)したふるまい」を社会学では「再帰的な」ふるまいという。我々も含め、およそ近代人であるからには、この再帰性をどう考えるかということから自由ではない。

+ + + + + +

ところでこの「刻印」云々の話、自分としては完全にアーレントに与する立場なわけで、まぁ、そうでなければ自分の言いたいことの多くは灰燼に帰するわけだけれど。

例えば例としては別に何でもいいんだけれど、次のちょうど10年隔てた二曲、上が76年、下が86年のもの。それぞれ「大きな物語が消え去った直後の行き場のない焦燥感」、「マテリアルなものに絶対的な自信をもった無邪気なスノビズム」がありありと感じられてならないのだ。


ところで今日、久々に自転車で激しくすっ転んだ。久々といってもこないだ書いたヤキマの帰りにズザザザーっとやって、掌がパックリ割れて血みどろになった以来だろうから、もう十年ぶり以上だろう。

青梅街道の車道を快調にトばしてて、歩道に移ろうとしたのが角度が浅かったらしく、ふわっと浮いてまたズザザザーっと。空中で半転したのが幸いしてかすり傷で済んだらしい。一部始終を見てたオバちゃんが軽く引き気味で「だ…大丈夫?」と言ってくれたから、とりあえず「だ…大丈夫」と言っておいた。

普通に生きていると「転ぶ」ということすら滅多にない。「そうか、俺はこんなにも転んでないんだなぁ」とか、妙に繰り返し思いましたとさ。